モーニング・コール


『おはよう、加奈子さん。愛してるよ』
 電話越しの低い声は、なんだかとても眠たそうだ。きっかり7時30分のモーニングコールは、もう少しで1年になる。
「おはよう、ゆう君。愛してるわ。きょうは眠そうね。徹夜明け?」
『残念ながら、まだ明けてないんだ。明日プレゼンでさ』
「そっか。仕事取れるといいね」
 電話の向こうの相手、佐久間雄也はインテリアコーディネートの会社に勤めるデザイナーだ。近頃、やっと大きな仕事を任せてもらえるようになったらしく、楽しそうにしている。
『ありがとう、頑張るよ。加奈子さんは? これから仕事?』
「そう、これから仕事。――ね、ゆう君、忙しい時まで掛けてこなくても」
『駄目だよ、加奈子さん。約束だろ? 2年は続けるって話。――それとも、もう降参する?』
「そういうわけじゃ、ないけど。つらいでしょ」
『気にしてくれるんだ? やさしいね。俺は平気。仕事にメリハリがついていいくらいだ』
 適当に話を切り上げて電話を切ると、私は出かける支度にかかった。モーニングコールといいつつ、寝起きには心臓に悪い電話だから、とうに起きて朝食も済んでいる。早起きする分だけ、毎日お弁当をつめる余裕が出来てしまった。
 毎日こんな会話をしているけれど、私とゆう君は恋人じゃない。このおかしなモーニングコールは、場の勢いとなりゆきの賜物だ。





 もともと、ゆう君は夫の亨の親友だった。亨と付き合いはじめて暫くした頃に、彼に紹介されたのだ。2年くらい前には当時の彼女だったリカさんも含めて4人で遊びにいったりもしたし、そのリカさんに振られた時には慰めるためと称して、3人して飲み明かしたことだってある。亨が病気になったときも励ましてくれたし、忙しい仕事の合間を縫って、よく見舞いにも来てくれていた。亨が息を引き取ったときも、誰よりも早く来てくれた。血縁のうすい亨のために、お葬式とは別に友人だけでお別れ会を企画してくれたのもゆう君だった。私にとってのゆう君は、今ではとても大事な友人のひとりだ。
 亨がいなくなって、半年経った頃だろうか。ゆう君と、秋川さん――亨とゆう君の友人のひとりだ――とで食事にいった時のことだった。秋川さんは急に電話で呼び出されて帰ってしまい、小さなボックス席に私とゆう君のふたりきりでのんびり飲んでいた。友人として親しくつきあっているとはいえ、亨の友人やその彼女などを交えてのことがほとんどで、ふたりきりというのは、もしかしたら亨の葬儀の後以来のことだったのじゃないかと思う。私は誰かと食事をするのが久しぶりで、だからほんの少しお酒を飲みすぎていた。
「加奈子さんさぁ、彼氏とか作んないの」
 ゆう君もいつもよりは少し酔っていた。呑んでもあまり顔色の変わらない人なんだけれど、珍しく上気した顔で何かのついでのようにそう言った。
「何でよ。いらないわよ、そんなもの」
「でも、ずっとこのままじゃ淋しいだろう。亨も加奈子さんも家族の縁のうすい人だし」
「別に淋しいとかはないわよ。ゆう君も秋川さんも川上さんも遊んでくれるし、他にもガッコの時の友達がいるし、想い出だっていっぱい、あるし」
 焼酎のグラスを傾けると、氷がカランと鳴る。目を凝らせば溶ける氷から陽炎のようなものが流れ出しているのが見える。学生時代の友達とは、そういえば彼女達が結婚して以来、年賀状以上のつきあいはあまりない。子どもが生まれたという葉書が去年来た時に、お祝いを贈ったお礼の電話があったくらいだろうか。両親とも今は付き合いがないし、改めて考えると私はあまり人付き合いをしていないような気がする。
「加奈子さん、いま自分がどういうカオしてるか分かってる?」
「どういうも何もないわよ。何よ、可哀想だから誰かあてがってやろうとか言うつもりじゃないでしょうね? 怒るわよ」
 憐れまれる筋合いなんてないんだから、と噛み付いてやると、ゆう君はうすく笑った。
「そんなに怒らなくてもいいだろ。ね、今すごくいいこと思い付いたんだけど、俺」
 そう言って嫌な感じに笑みを深くしたので、あわてて遮る。
「そんな考えは捨てなさい」
「まだ何も言ってないだろ」
「酔っ払いの思い付く『すごくいいこと』なんてロクなもんじゃないの」
「まあ、そう言わずにさ。あのさ」
「何よ、真面目な顔して」
 なんだか、その先を聞いては行けない気がした。酔っているせいだろうか、ゆう君は普段見せないようなちょっと悪い顔つきで、顔を近くに寄せてきた。そうすると、やけに艶っぽく見えて心臓が跳ねる。ゆう君にこんな表情もあったことを私は知らなかった。
 これは誰だろう。
「加奈子さん、俺と恋をしよう」
「イヤ。絶対無理」
 私はほとんど反射的に言った。ゆう君は口を尖らせて子どもっぽく不満をもらす。
「何でさ」
「無理ったら無理。ありえない」
「だからどうしてだよ」
「心が動かないわ。ゆう君は大事な友達だけど、そういう気持ちはもう死んでしまったから」
 それは本当だった。亨がいなくなってから、誰かに惹かれるとか、浮立つような気持ちが消えてしまっていた。私の心はこのまま石のように冷たく堅くなって、そのうちには終わりが来ることを待つようになる気がしていた。きっとそうなればもう辛くはないだろう。
「誰が相手でも駄目?」
「そう」
「毎日口説いても?」
「無理ね」
「毎日『愛してるよ』って言っても心が動かない?」
「当然。いま言ったじゃない」
「本当かなぁ。俺さ、言葉の力って馬鹿にできないと思ってるんだ。毎日言ってたら、ぜったい気持ちが動くって。だから加奈子さんのはそう思ってるだけだよ」
「そんなことないわ」
「あるって。じゃあ証明する?」
「してやろーじゃないの」
 改めて言うけれど、私はちょっと酔いすぎていたのだ。普段だったらこんなこと、絶対言わない。この時も、なんだか話がおかしな方に行っている予感はあったのだけれども、言葉を止めるところはできなかった。
「じゃあ、何か賭けようか。そうだな……俺が負けたら、これをやるよ」
「指輪? これ、シルバー?」
 ゆう君が小指から外して見せたのは、すこし凝った形の指輪だ。蛇がモチーフらしく、二重に巻きついたその蛇の頭は、自分の尾を咥えている。素材はつや消しの銀で、鱗らしい模様も入っていてかなり細かいつくりだ。
「そ。それだったら使えるだろ。俺の小指に嵌ってるやつだから」
「あ、ホントだ。そう言えば、コレ、ちょっと前からしてるよね。どしたの?」
「銀粘土。同じ会社のツレが最近嵌っててさ。んで、依頼されてる店内の小物とかコレで作ってみるかーなんて話になって、試作したやつ。小さすぎて小指にしか入らんのよ」
「失敗作だ」
 私はそう言ってきゃはははっと笑った。アルコールがかなり効いてきているかもしれない。
「や、そうでもないよ? 一応形はいい感じになったし。――加奈子さんさ、毎朝何時に起きんの?」
「んー、7時半くらいかなぁ」
 だんだん眠くなってきた。ちょっとだけ机に寄りかかる。グラスを頬に当てるとつめたくて気持ちいい。
「休みの日は」
「休みの日もー、同じー。そうしないと普通の日に起きれないもん」
 ああ、だめだ。体が崩れてく。このまま机に突っ伏して眠りたい。
「じゃあ、加奈子さんさぁ、俺、毎日朝の7時半に電話して『愛してるよ』って言うからさぁ、加奈子さんも『愛してるわ』って返して?」
「何で、私まで返さなきゃいけないのー?」
「だって、証明するんだろ? 言ったよな? 加奈子さん、本気で惚れたら照れて好きって言えない人だろ。ちゃんと返せなくなったら俺の勝ちー」
「えー、何よそれぇ」
「だって絶対に心が動かないんだろ? だったら減るもんじゃないし、いいだろう?」
「そりゃそうだけど」
 そうだけど、何だかおかしい気がする。ゆう君の顔を見上げると、なんだかひどく優しい顔をしていた。目を細めて嬉しそうに笑っている。
「じゃ、決まりな。明日から始めるから。期間は2年間。それくらい、楽勝だろ?」
「まあね。あったりまえよぉー」
 翌朝、7時30分きっかりにかかってきた電話を受けたときは、心臓が止まるかと思ったものだ。サイアクなことに、ゆう君の低い声は、ちょっと甘くてよく通る。その声で『愛してるよ』だなんて、寝起きに聞くには心臓に悪すぎる。




「松田さぁん、これね、DMの発送先リスト。チェック頼める?」
 武田さんが相変わらずのにこやかな顔つきで、どさささっ、と書類を置いた。武田さんは営業部の事務員さんで、たぶん三十代の半ばくらいの男性だ。ちょっと痩せ型で手足が長く、ほんの少し猫背で、その感じが亨に似ている。ツルの細い眼鏡をしていて、そのせいか、やや神経質そうに見える人だ。
「あー、えっと、作業がまだあるので午後からでいいですか? 読み合わせします?」
「や、チェックだけで結構。漏れがないか見てくれる?」
「どこを見ればいいですか? ああ、ここのチェックがついている人のです?」
「そうそう。終わったら持ってきてくれる?」
「わかりました」
 メモをつけていると、ばたばたばたっという慌しい足音とともに中森さんが駆け込んできた。
「松田ちゃん、悪いけど急ぎでコピー20部ね」
「両面で、ホチキス2箇所でいいですか?」
「んーん、クリップで留めといて。出来たら会議室のBに頼むわ」
「えーと12ページ、20部で両面、クリップ止めで大至急ですね」
「そう。あ、高塚さぁん、コーヒー頼める?」
「えー、またですかぁ」
 中森さんは、いつもの調子で正社員の女の子にコーヒーを頼んでいる。彼女が不満そうに言うのもいつものことだ。
「お願い。可愛い女の子が来ると場が華やぐじゃない。頼むからさー」
「いいですけどー。もぉ、中森さんいつも調子いいんだもんなー」
「悪いね。大事なお客さんなんだわ」
「じゃあ持ってきますねー」
「頼むね。じゃあオレ先会議室に戻ってるから。よろしくッ」
 来た時同様に騒がしく去って行く中森さんを横目に、コピー室まで走る。
「すいません、急ぎなので割り込み出来ますか」
「どうぞ。今度は誰の?」
「中森さんです」
「またか。あいつ、いっつもバタバタだな。もうちょっと余裕持って予定組めばいいのに」
 鳥居さんの意見には特に肯定も否定もせず、にこっと笑って済ませると、出来上がった資料を確認してクリップで留める。
「お邪魔しました」
「いえいえ。使用枚数は? つけとくよ」
「ありがとうございます。両面6枚×20部で120枚でお願いします」
「中森にあんまりこき使うなって言ってやってよ」
「でも、私にはこれも仕事ですし。じゃ、失礼します」
 かるく頭を下げて部屋を出ると、背後で何かの気配がした。きっと融通のきかない人間だと呆れているのだろう。自分でも自覚はあるけれど、仕方がない。とりあえずは資料を届けて、頼まれたファイリングの続きをして、リストのチェックに入ろうと思う。
 資料を渡して戻ってくると、しばらくして、コーヒーを出しにいっていた高塚さんが戻ってきた。いっつも、こんなんばっかりだよねー、なんて言いつつ、自分の入力作業に戻る。
「でも、松田さんいつもモテモテよね。いろいろ頼まれて大変じゃない?」
「そうでもないですよ。時間も決まってますし、雑用がメインの契約社員ですから」
「えー、でも、松田さん実はみんなにスーパー契約社員て呼ばれてるんですよ」
「ええ? 何ですか、それ。私べつに言われたことしかやってないですよ」
「でもォ、仕事頼むとき、みんな松田さんに頼むじゃないですか。信頼されてるんですよ」
「そうかな。だったらいいなとは思いますけど」
「ホントよ。美人だし、優しいし、しっかりしてるし。独身だったら口説いてるのにって言ってる人も結構いるんだから」
「やあねえ、みんな口が巧いんだもの、困っちゃうわ。あ、ほら、高塚さん、お客さま」
「やだ、すみませぇーん」
 慌てて部屋の入り口にぱたぱたと駆けていく高塚さんの背中にほっとため息をつく。この会社は、つい最近、結婚前に勤めていた会社に紹介してもらったところだ。この職場の人たちには夫が亡くなったことは伝えていない。人事のヒトにも口止めしてある。結婚指輪は嵌めたままだし、この先ずっと外す気もない。
 購入したマンションのローンは、購入時に入った保険で賄われてしまった。亨が死んだことでローンを払わなくてもよくなったのだ。子どももないし、自分ひとり暮らす分には、それほど収入が必要なわけでもない。


 私の仕事は夕方の4時に終わるので、毎日そのあとは買い物をして掃除をして食事をつくって、影膳をそなえてから夕食にしている。それから片付けて弁当の下ごしらえ、洗濯とアイロン、時間があればもう少し掃除をして風呂を沸かし、新聞を読みつつニュースを眺める。風呂に入ればもう翌日の用意をして寝るだけだ。電話をかけたり、誰かと会ったり、話をすることはほとんどない。最近になって、何もなくたって生活はしていけることに気がついた。
 たった独りでも、手段さえあれば生きて行くことはできる。ただ、寿命が来るまでの時間を思うと途方にくれてしまう。この生活はいつまで続くのだろう。
 だって、もういないのに。亨がいないのに。