夕闇の都

 

 その都はつねに影のような陰うつさをまとっていた。
 むろん、その気候のせいもあったろう。月の半分は薄曇りの空のもとにあり、残りの半分も多くはそぼ降る雨の中か、物音すら閉ざしてしまう雪のなかに沈んでいる。しかし、わずかな晴れの日であっても、その陰うつさはそこを離れることはなかった。まるで、白いクロスに残された染みのように、どんな方法をもってしても抜き取ることができぬかのようであった。
 街は、つねに灰色であった。
 それは石畳の色であり、家々の壁の色であり、市壁の、城壁の、そして城館の壁の色であった。さらには、あらゆる建物の屋根は暗い青緑をしており、街の印象を暗く彩っていた。通りを行く人々はすくなく、不意の雨にそなえて皆フードつきの外套をまとっている。晴れた日の少ないために、広場で芸を見せる軽業師や踊り子の姿はほとんどなく、露店らしきものも見当たらない。しかし、通りをゆく馬車は黒い塗料と金の飾りとで飾られ、馬具までが洗練された美しい姿をしており、どれほど深更であっても街に灯りの絶えることはなかった。
 華やかな色彩だけが拭い去られたかのような、そんな都である。そして、いつまでも夕闇と夜が続いているような都であった。かつて古王国の皇帝の在った都。ハルーシュカ。夕闇の都と人は呼ぶ。
 この夕闇の都は、今まさに夜を迎えようとしていた。昼過ぎから市街を湿らせていた雨は、徐々にふかい霧へと姿を変え、市壁の底に溜まっている。城館の後ろにあるはずの高峰は、もうその姿を霧の中に没して、わずかに影のみとなっていた。
 この都市では、市街の中央からやや西よりに高級旅館が軒を揃えている。地味な灰色の壁は他と変わらぬものの、窓から張り出したベランダや、意匠を凝らした看板の彫刻にはくすんだ金が目立つ。通りにはやはりひとが少ないものの、人の気配は濃く、部屋部屋からただよい出る香の甘く煙っぽい匂いが充満していた。
 それらの旅館の中でも高級な、小さいけれども瀟洒な部屋にふたつの人影があった。ひろくて豪奢な部屋など、このあたりにはいくらでもあったが、この部屋はそれらに比べ、ごくせまい。しかし、宿泊料はきわだって一流という部屋である。中にある人物の格も知れよう。
 その人物は、部屋の奥に設えられた机と椅子のあいだに、背筋を伸ばして端然と収まっていた。黒髪を短く整えた、若い男である。ゆったりとした上着のなかに、身体に沿うような動きやすい服を身につけている。姿勢は楽にしているようなのに緩んだ様子が見られないところを見ると、武人であるのだろう。剣帯は外し、剣は椅子に立てかけてあったが、柄にすぐに手の届くようにしてある。
 机は一枚板の大きな円卓、椅子はその人物の2倍ほどの横幅があり、双方ともに蔦のからまる優美な彫刻が施され、黒い木肌は隈なく磨きぬかれてつやつやとしていた。彼の対面にも同じ椅子がしつらえてあったが、そこにひとの姿はない。しかし、その席に座るには相当の勇気が要っただろう。男の視線はその何もない空間にひたと当てられていて、相手を震え上がらせるには十分であった。彼はうりざね型の優美な顔つきをしていたが、この瞬間の目つきは冷厳で気性の激しさが面にあらわれていた。
 彼の左手後方には、つややかな黒髪をこざっぱりとまとめた細身の女が控えていた。男とは対照的に柔和な顔つきである。襟の高い、体の線に沿ったこれも動きやすそうな身なりである。男のものには劣るが、光沢のある上等な衣服である。男の前に置かれた足つきの杯に何やら飲み物をついでやっている。男は、それに手をつける様子はない。
 部屋の中は、香の煙がその香りとともに満ちていた。ぽつんぽつんと灯りが置かれ、この中は薄明るい。遠い部屋から歌人の声が漂ってくるほかは霧に閉ざされてしずかであった。
「ご機嫌はまだ直りませんか?」
 苦笑まじりに女が声をかけると、当然だろう、と憮然とした声が返ってきた。
「こんな辛気くさいところで足止めをくらってご機嫌がうるわしいわけがなかろう」
「ですから気晴らしに酌婦でもお呼びしましょうかと申しましたのに」
「いらん。気晴らしなど」
 苛立ちを隠しもせず、男は杯をあおる。「おれは急いでいるのだ」
「ええ、それは承知していますとも」
「先は長い。片道だけでもクブルーシュカ、ザクリィヤ、ルハトカ、イレーニフスク! エリンシールカまでは4つも都市を抜けていかねばならぬ」
「ええ」
「だのに、ひと月も先まで市門は開けられぬ、だと? いったい何だというのだ」
 男には事情があった。この先エリンシールカに至り、春までには戻ってこねばならぬと思いさだめていたのだ。エリンシールカは遠い、だが、行って帰って来れぬ距離ではない。そう思ったからこそ彼は父の命に従い、誓約をたてたのである。誓いこそ立てなかったが、どうでも春には戻ってくるつもりだったのだ。
 しかし道程のなかばも行かぬうちに、ここハルーシュカで足止めにあった。ハルーシュカでは開門の日が厳密に決められており、次の開門はひと月ののちだというのである。
 開門の日は、ひと月に一度と決められているわけではない。千年も昔に定められた法則に従い、市門は二十日も続けて開く日もあれば、三日ごとに開くこともあり、今回のようにひと月も先になるまで開かぬこともあるという。
「これが古王国の都、ハルーシュカなのです。ここでは古王国の掟を違えられることはけしてないと、そう言われております」
 女の声に、彼は相手を刺すように見た。
「リィファン、はじめから知っていたな」
 彼女は、微笑んでみせる。男の視線にまったく動ずることがない。
「ええ。あなたのお父上に口止めされておりましたから。ユーリンさま」
 そこで言葉を止め、赤い唇の端をきゅっと引き上げて鮮やかな笑みを見せた。
「あなたさまは、春までに戻ることはかなわぬでしょう。今回の旅は、それほど困難をきわめているのです。お覚悟なさいませ。――――それでも、誓約を棄てずにいる気はございますか」
「むろんだ。おれは誓約は違えぬ。父に手もなく騙されたのは業腹だが、誓約を違えるわけにはいかぬ。困難ごときで退くものか」
 男は、ここにきてはじめて笑みを見せた。その目は刃物に似た鋭さをみせて、いきいきと輝いている。挑戦すべきものを見出した者の貌であった。
「それではわたくしも、この力の能うかぎり、側にあって手助けをいたします。ユーリンさま、誓約を、受けてくださいますか」
「むろんだ。受けよう」